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番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 暴力表現あり

ウェリガナイザ 番外編

夢の呪言

written by 祈宮風日
 宿場のはずれに建つ《灰色ロバ亭》は《王の道》とか《石の道》とか呼ばれる街道筋ではありふれた宿屋だ。粘板岩の屋根と漆喰の壁は灰色にくすみ、ちらちらと瞬く角灯に照らされた小さな看板の上で、色褪せたロバが長年の疲れに首を垂れている。
 日はとっぷり暮れてしまっていたが月はまだ昇ろうとせず、星明かりを頼りに歩いてきた旅人が二人、灰色ロバ亭の扉を開けた。中年過ぎの恰幅の良い亭主が酒場を兼ねた食堂の常連客との雑談を中断し、半分も埋まっていない食卓の間を縫って戸口へ向かう。
「お泊まりで?」
 歩きである事と荷物の少なさから、どうせうまやの屋根裏でもあてがうような客だろうと気のない様子で新来の客に声をかけた。
「二人部屋を頼みたいんだが」
 背の高い方の男――といっても亭主とどっこいで中背の下の方くらいだが――がベルトにつけた小物入れから銀貨エイリルを数枚取り出して答える。身なりを値踏みされて前払いを要求された経験があるようだ。銀貨を目にした瞬間、亭主の顔に愛想笑いがはりついた。
「良いお部屋をご用意できますよ。お食事はいかがいたしましょう?」
「何が食べられるんだ?」
「じっくり煮込んだ羊肉のシチュー、香草入りの自家製腸詰め、うちのかみさん自慢の甘藍かんらんと蕪の酢漬け、上物の乾酪ちいず、ほくほくのジャガイモサラダ……」
「適当に見繕ってくれないか。とりあえず冷たい飲み物を頼む」
 男は苦笑を浮かべて、延々と献立を並べ立て始めた亭主をさえぎると、寄ってきた下働きに銅貨と肩にかけていた革袋を手渡す。
「ありがとう。でも、これはいいよ」
 澄んだ声がこぼれ、連れの少年が背負っている竪琴のケースらしき物を渡すのを断った。
 煤けた梁に吊されたひとつきりの洋燈と客のいる席に一本ずつ灯っている獣脂蝋燭だけではわからなかったが、下働きが持ってきた明かりで見ると、二人ともまっすぐな黒髪を肩より短く切っていて、黒い瞳だとわかった。すらりとした体つきも同じで兄弟かとも思うが、顔立ちはあまり似ていない。双方に端正という言葉が当てはまりはするのだが、二十歳くらいに見える方がきりりとした印象で、少年は――十三か十四くらいか――やさしげな少女のようという形容がぴったりくる。
 だが、男の方が腰の後ろにいかにも護身用といった風の長めの短剣ようの剣を差しているだけなのに対して、少年は立派な長剣をいていた。
 商用でも公用でも、かといってただの遊山でもなさそうな変わった二人連れだが、銀貨さえ稼がせてもらえるなら亭主には何のこだわりもない。
「お飲み物はエールでようございますか? お連れさんには水で割ったイチゴ酒などいかがでしょう?」
 下働きに荷物を持っていく部屋を指示した後、酔い客達から離れた隅の席へ二人を案内した。

 薄荷水を飲み干してほうっと息を吐いた少年を見て、エールの杯を置いた男が声をかける。
「随分疲れてるみたいだな、ルシ。部屋に食事を運ばせた方がよかったか?」
「そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫です、ラヴァス」
 ルシは慌ててまるくなっていた背筋を伸ばした。
「気を遣ってるのはそっちじゃないのか。ずっとだるそうにしてただろう。昼もあんまり食ってなかったし……」
 確かに体がだるかった。食欲もない。それに、さっきから悪寒がし始めている。
(風邪、ひいちゃったかな?)
 病気で寝込んだ覚えがないルシは経験から自分の体調を判断する事ができなかった。咳や鼻水でもでれば病気とわかるのだろうが、そういう症状は一切ない。
(やっぱりかなり疲れてるのかな。いろいろ、あったから……)
 隠されていた自分の出自を知ってしまった事。世界ウェリアの運命を左右するような特別な力を担わされた事。歩いて半夜はんにち以上家から離れた事がなかったのに、いつ終わるともしれない旅に出た事……。
 ルシの社会見学も兼ねたのんびりした旅とはいえ、環境の変化に体がついていっていないとしても不思議はない。
 それに、多くの不安。自分がしなければならない事、降りかかってくるだろう困難に対する暗い予想がいつもルシを責め立ててている。心の弱さのせいで体調を崩したなんて考えたくないけれど……
「……聞いてるのか、ルシ?」
 少し、ぼうっとしていたらしい。ラヴァスの目がほんの僅か細められた。ちょっと怒ってるな、とルシは思う。最近、決して豊かとは言えないラヴァスの表情を読むコツがわかってきたところだ。
「具合が悪いならちゃんとそう言えと言ってるんだ。俺はそんなに気がつく方じゃないんだからな」
(嘘つき。ラヴァスみたいに察しのいい人は滅多にいやしない)
 出かかった言葉を飲み込んだルシの額に食卓越しにのばされたラヴァスの掌が触れる。ひやりとして気持ちいい。
「熱があるじゃないか!」
「え?」
「え? じゃないだろう。自分でわからないのか?
 亭主! 悪いが食事は部屋でとる。一人分はかゆか何か病人が食べやすいものにしてくれ」
 立ちあがったラヴァスはちょうど最初の料理を運んできた亭主にそう言うと、椅子の上に置いてあった竪琴の革帯を肩にかけ、ルシを抱きあげた。
「わっ、えっ、ちょっと、ラヴァス!」
「部屋はどこだ?」
「二階の一番奥の静かな部屋で……。ご、ご案内いたします」
 慌てて手近な卓に盆を置いた亭主が先にたつ。
「大丈夫ですっ。自分で歩けます! おろしてください!」
「自分が病気かどうかもわからないような奴に、どうして大丈夫だなんて言えるんだ? 階段でふらついて転げ落ちたらどうする?」
 そう言われると反論できない。それでもラヴァスの胸に顔を隠すようにして「でも恥ずかしいじゃないですか」と呟いた。



 何かが追いかけてくる――
 真の闇を見通す彼の眼をもってしても姿をとらえられない何かが。走っても走っても振り切れない。
 もうダメだ。
 疲労からと言うよりは恐怖のせいで立ちすくんだ。
 近くにいる――
 何とかしなければ……。でなければ喰い殺される。あるいは引き裂かれるのか。それとも……。
 誰かに心臓を鷲づかみにされているようだった。込みあげてきた吐き気を堪えながら、可能な限りの速さで魔法陣を描きあげる。
 気配が彼の髪をかすめた。得体の知れないもの。恐怖を撒き散らすもの。姿はないのに確かに存在している何か。
 彼は素早く印を結び、魔を呼び出す呪文を唱え始めた……


「ルシ! 目を覚ませ、ルシ!」
 軽く頬を叩く手の感触。目を開けるとすぐ近くにラヴァスの顔があった。寝台の端に腰掛けて、ルシの眼を覗き込んでいる。部屋へ連れてこられた後、どんどん熱があがっていったみたいで、お粥さえろくに食べられずに眠ってしまったのを思い出した。
「ラヴァス……僕……」
 ラヴァスが掛け布団の上からポンポンとルシを叩いた。
「まだ夜中だ。……起こして悪かったな。悪い夢でもみてるみたいにうなされてたし、それに……」
 視線をそらせたラヴァスが言い淀む。重く冷たい物がルシの胃に流れ込んだ。すごく嫌な感じがする。
「それに……何なんです?」
 理由のわからないあせりに突き動かされたルシは上体を起こしながら続きを促した。
「寝言を言っていた。多分、闇の言葉で。何かの呪文みたいだったんで万一発動したらと……」
「闇の言葉……!」
 夢の中の恐怖がルシに追いつく。
 体が震え、両手で膝の上の布団を握りしめた。目を覚ましたとたん忘れていたのが不思議だ。あれは、あの夢は――。
 その時、ルシの心に何かが触れてきた。おぞましく、それでいてよく知っている何か。それは彼を捜し求めているようで……
 だしぬけに、馬のいななきが響いてきた。一頭や二頭ではない。厩にいる馬がすべて騒ぎ始めたようだ。
「ラヴァス!」
 我に返ったルシが呼びかけた時には、ラヴァスはもう服を着て、靴に片足をつっこんでいた。
「何が起きてるのか確かめてくる」
 言いながらチュニックの上に武器のついたベルトを締める。寝台から滑り降りたルシが頭板に掛けてあった衣類を手にして振り返ると、窓のカーテンを開いたラヴァスが鎧戸よろいどを押し開けていた。
 湿った夜の風が流れ込んでくる。
「病人は寝ていろ」
「でも、もう熱はさがっ……」
解熱剤くすりが効いてるだけだろ」
 ルシを睨みつけたラヴァスは、そこが二階だという事を気にする様子もなくひょいと外へ飛び出した。片膝を軽く地面について着地し、指先のない黒い手袋をはめながら向かいにある厩にむかって走り出す。
「うわあァ――っ!」
 屋根裏うまやで寝泊まりしている厩番の悲鳴が、いななきやひづめで激しく壁を蹴り続ける音を押し退けた。
 扉を開こうとしたラヴァスは中からかんぬきがかかっているのを知って舌打ちする。と、奥の方からわめき声が突進してきた。ガタガタ鳴る閂。ラヴァスが身を退いた瞬間、襲いかかるように観音開きの扉が開き、人が転げ出した。寝乱れ、取り乱した素足の男。立ちあがろうとして腰が抜けてしまっているのに気づき、両手をついたままひきつった表情で厩を振り返る。
 炎が馬房を舐めていた。
 ついさっき彼が落とした洋燈の火が、干し草に燃え移ってしまったのだ。
 燃え広がる炎に照らされて影が動いた。
 眼の隅に捉えた刹那、ラヴァスの背筋に冷気が走る。
 ソレは、もやもやとした何かだった。夜のように黒く、それでいて透けている。さざ波立つ水面のようにうごめくソレを凝視したまま、ラヴァスは腰にのばした右手で束ねた細縄をつかんだ。ベルトに作りつけられている短い帯革のスナップがはずれ、縄の両端の縒り戻しについている掌程の長さの刃と小さな三つ又の鉤がそれぞれの鞘から滑り出す。《稲妻レイプト》と呼ばれるその武器じょうひょうはラヴァスの魔力を受けて半透明な乳白色の刃を蒼白く輝かせ始めた。
 霧のように薄く広がった物の怪を間近にして一頭の馬が後肢立ち、ひときわ激しくいななく。
 あっと思う間もなく馬が妖怪に包み込まれた。異様な音と共に骨という骨が折れ砕け、皮が裂け千切れる。その一部始終、臓物がすり潰されていく様さえが、透けて見えた。悦楽の絶頂にあるようにうち震えた妖魔は、情事の後の吐息のように沈み込み、赤い、どろどろしたものを排泄する。
 飛び散る飛沫。
 異臭が胸をむかつかせる。
 尾に炎を踊らせた馬の痛ましい叫びが、常軌を逸した光景に呪縛されたように凍りついていたラヴァスに行動を促した。呪文を唱えながら左手指を複雑に動かし、真横にあげた腕を一気に払う。
 吹き抜ける風――
 厩から瞬間的に空気が吸い出され、火勢が弱まった。数回同様の手順を繰り返した後、何かを握りつぶすような動きで残り火を揉み消す。
 突風にあおられて地を這うようにひろがっていた妖しい黒靄がゆらめきながらのびあがり、出口へ進み始めた。
 ヒュルルンッ――!
 風を切るレイプト。しなやかな金属の縄の先で輝く刃が円を描く。軽く回されていたラヴァスの手首がしなった。閃光が闇を切り裂く。しかしレイプトの刃はもやもやとした塊の中央をするりと突き抜けた。舞い戻った刃を掌に収めたラヴァスの表情が曇る。
(手応えがない?)
 本物の霧を相手にしているようだった。だが、ソレは確かに馬をき潰したのだ。
(必要な時だけ実体化するのか? 厄介だな)
 騒霊を追い払うくらいならともかく、ラヴァスには強力な霊体を封印したり、実体に乗り移らせて滅するような術は使えない。レイプトをベルトに戻したラヴァスが思案している間にも、黒霧がゆるゆると近づいてくる。
「うわわわわわわ……」
 いまだへたっていた厩番が、やっと逃げる事を思い出したとでもいうように慌てて這いずりだした。
 いつの間にか背後の鎧戸のいくつかが開き、明かりが漏れている。叩き起こされた泊まり客が、騒ぎの原因を見極めようとしているようだ。
 戸口に斧と洋燈を手にした亭主が現れた。厩番の名を叫びながら飛び出してくる。
「一体何の騒ぎだ? 馬泥棒かっ?」
「ば、ば……」
 ようやく立ちあがった厩番が、主人に取りすがった。
「化け物……化け物が……」
 馬鹿げた事を、と言いかけた亭主の肌が粟立つ。厩の入り口にわだかまっている影に気づいたのだ。
「なんだっ? なんなんだっ、あれは?」
「馬どもが騒ぐんで、明かりを持っておりてみたら、そいつが……そいつが地面からわきだしてきて……」
「さがれっ!」
 切迫したラヴァスの声。
 亭主と厩番が尻と背中に痛みを覚えた時には、飛びかかってきたラヴァスと重なり合って六、七エルも後方に倒れ込んでいた。さっきまで二人が立っていた場所で不定型な闇が揺れている。その気になればかなり敏捷に移動する事もできるらしい。
 ラヴァスの眼前に亭主が取り落とした洋燈が転がっていた。硝子が割れ、火も消えているが、薄い金属で作られた油入れの部分は無事なようだ。素早く立ちあがったラヴァスは手にした洋燈を妖魔がたゆたう地面目がけて投げつけた。物の怪を素通りして大地に叩きつけられた洋燈が高い音を響かせる。変形し、ひび割れた油入れから灯油が流れ出した。ラヴァスの手と唇が魔法を紡ぎ出す。
 炎が燃えあがった。
 灯油を苗床に、渦巻き集った風とラヴァスの気を肥料にして爆発的に成長した炎は、黒い霧が占めていた空間に輝く紅蓮の柱を打ち立てる。強い風の壁を通してなお凄まじい熱気が伝わってきた。そして――
 不気味な黒い靄は消え去っていた。
「やった……消えた、消えちまった。やっつけたんだ!」
 欣喜きんきする厩番。しかし、その歓声を悲痛な声がさえぎった。
「違う! やつはあっちの世界に逃げ込んだだけだ」
「ルシ?」
 いつからそこにいたのか、振り返ったラヴァスはきっちり着替えて剣まで帯びているルシを見て顔をしかめる。
「どうしてわかるのかなんて訊かないでください。ただ、なんていうのか、絆が……」
 ルシの視線が落ちつかなげにさまよった。
「多分しばらくは出てこないと思うんだけど……」
 言いかけていた科白を繋がず、自信なげに呟く。
「ああ、馬共の面倒をみてやらにゃあ……」
 腰を抜かす程怯えていたというのに、厩番は自分の仕事を忘れていなかった。馬達は恐れや不安だけでなく、火傷の痛み、恐怖のあまりの疝痛せんつうのせいでも騒ぎたてている。厩番は亭主とラヴァスに会釈すると、逃げるように厩へ駆け込んだ。
 その様子を見て自分もやるべき事を思い出したというように、亭主が語気荒く詰め寄ってくる。
「あんたら一体何者だ? さっきの化け物はなんだったんだ?」
 軽く溜め息をついたラヴァスは首から細い鎖をはずして亭主の鼻先に突きつけた。鎖の先に白金の指輪が揺れている。指輪を手にとった亭主は頼りない明かりの下でなんとか陰刻を判別した。
 頭をもたげ、翼を拡げた竜。
 見たのは初めてだが、話に聞くあの印形指輪に違いない。驚きにヒュッと息を吸い込んだ。
「竜騎士……!」
「ラヴァスアークだ」
 鎖を首に戻し、指輪を上衣の胸元に落とし込んだラヴァスが亭主の耳元で二言三言囁く。
 宿へ戻っていった亭主の背中から目を離すと、少し離れて立っていたルシに歩み寄った。
「寝ていろと言っただろう」
「でも、あれは……さっきの妖魔は僕が……」
 左手で右手首をつかんでうつむくルシ。
 その袖の下にははずす事のできない腕輪がはめられている。不思議な文様を持つ暗い銀色の輪。力と、逃れられない宿命を象徴する美しいかせ
「まさか……」
 ラヴァスの脳裏に彼の理解できない言葉が響いた。その独特の調子から呪文のように感じたルシのうわ言。
「夢の中で、僕はラリックでした」
 ラリック、闇の王とヒトの間に生まれた王子。その彼が光の王女とヒトの血をひく娘を愛するという運命の悪戯によって生を受けたルシは、まだ胎児だった我が子を守ろうとして死んだラリックの呪いねがいによって、彼の記憶の一部を受け継いでいた。
 ヒトの子供として育てられたルシが出生時に魔力と共に封印されていたそれらを取り戻したのはついこの間の事ではあるが。
「何かに追いつめられて、身を守ろうとしたラリックは魔を生み出したんです」
「しかし、あんな寝言で……。万一発動したらと言ったのは俺だが、そんな高度な術を魔法陣もなしに……」
 生成術は生まれ持った魔力の無意識的な発露などで成立させられるものではない。いくら闇の王子ラリックの知識があるとはいっても、ルシ自身は魔法の修練を積んだ事などないのだから。
「僕だって信じられません。でも、アレは現れた。それに魔法陣はあったんです、夢の中に。どうしてそんな事ができたのかわからないけど、アレは夢と現実の狭間に具象化したんじゃないかと思うんです。だからあんな風に実体化したり実質のないモノになったりできるんじゃないかって」
「もっともらしくは聞こえるな。だが、こう言っちゃなんだが、本当にアレが……」
 言葉に迷ったように息を継いだラヴァスの科白をルシが引き取った。
「僕に生み出されたモノなら、僕らに消滅させられるはず、ですよね?」
 魔物の正体――何処で、何の為に、どうやって作られ、なんと名付けられたか――がわかれば使える白魔法の範囲でなんとかなるかもしれない。
 だが、その為にはルシが正確な生成の呪文を思い出す必要がある。つまり闇の言葉を使う、という事だ。
 言葉を使って思考する者は、言葉によって思考を導かれる。
 たとえば、海の帝国で話されている言葉を使っていると女性が生活の全般を取り仕切る事が当たり前だと思える。帝国語では至高神と大海が同語であり、海は大いなる母と呼ばれ、女性は体内に命を育む海を持つ者と呼ばれるから。
 逆に王国語を話す者は国や家を指導するのは男の仕事で、やむを得ない場合のみ女性がそれを代行するのだと考える。王、家長など指導者を表す単語はすべて男性を指し、稀に女性がその役割を担う時には女王、女家長と、その人物が『男ではない』事をことわらねばならないから。
 闇の言語を学ぶだけでも思考様式が闇に染められる危険をはらんでいる。そう教えられて育ったルシは、自分の心の底にその知識があるのを知ってからずっと《黒い言語》に触れるのを避けてきた。
 それなのに、彼の夢は簡単にその情報を拾いあげ、眠っているルシの唇からこぼれ出させてしまったのだ。
「ラリックが紡いだ呪文を王国語にすると大体こんな感じになると思います……」
 一瞬身を震わせたルシは深呼吸をして目を閉じた。
でよ 我が下僕しもべ
 常闇とこやみの彼方より 奈落の底より
 朽ちし者のあくたより 我が心の暗闇より
 我が元へ来たれ
 われ なんじを……」
 ルシの眉間に深いしわが刻まれ、それに続くはずの魔物の名を求めて声もなく口が開く。が、どんな音を発する事もなく唇が閉じ、かわって開かれたルシの瞳には困惑が宿っていた。
「呪文を言い切る前に俺が起こしちまったのか?」
「どうも、そうみたいですね」
「まずいな……」
 対峙した時の感触、ルシの話から推してあの魔傀まかいは奈落の塵に世界ウェリアを巡る気の流れを流し込んで創られたモノらしい。そう考えると、形が定まらないのは命名によって与えられているべき本質が欠落しているからだろうと思える。
 問題は、名前がないと呼び出しが利かない、つたない魔法で滅する事などできないだろう、という事だ。
 突然、ルシの体に電撃が走った。
 感じる。アレが近づいてくる。
 暗闇での視力を持つ瞳がソレを捉えた。息を呑むルシ。
 何が起こっているのかを察したラヴァスがルシの視線の先に目を凝らすと、遅く昇った月に照らされた夜の中で、一塊の闇がじわりとその濃さを増していった。
 亭主にさせた説得が功を奏したのか、最前まで明かりを漏らしていた背後の窓々は既に閉まっている。
 ルシの手が剣の柄にかかった。それが役に立つと思っている訳ではない。無意識にそうしてしまっただけだ。
「我が元へ来たれ、か。最初はちょっと場所を間違えたみたいだけど、ちゃんと僕の所に来たんだ」
 ルシの唇は皮肉な笑みに歪んでいた。その声は微かに震えていたけれど。
 集った靄がゆらぎ、ルシに向かって進み始める。
 それまでとは比べものにならない強大な恐怖がルシにつかみかかった。
 足がすくむ。体中が震えだす。息が苦しい……。
 ぐいっと腕を引かれてよろめいた。慌てて両手を差し出したラヴァスに支えられて転倒を免れる。引きずられるようにして、更に数ヴァズマール妖魔から遠ざかった。
 恥ずかしさがルシを正気づかせる。自分で生み出した化け物が怖くて、身動きもできなかったなんて。
「大丈夫か?」
 ラヴァスはルシの体調を心配しているようだ。薬が効いているせいなのか、寝汗といっしょに流れ出してしまったのか、夕刻までのようなだるさは感じなかった。大丈夫ですと言おうとしたルシの眼に涙がにじみ出してくる。
「いっやだ……どうして……」
 まばたきといっしょに滴が頬を伝った。怖かったから? 薄気味悪い物の怪を相手にするのなんて初めてじゃあないのに。情けなくて、悔しくて余計に視界がかすむ。
「ルシ……?」
 ラヴァスの声がうわずっていた。魔物と向き合っても平然としているクセに、ルシの涙を見て動揺している。
「ごめん……なさい。心配かけて。もう平気だから」
 ラヴァスから離れたルシは袖口で涙をぬぐった。
(《ウェリアの護りウェリガナイザ》、お願いだ。剣を……)
 ルシは霧の化け物を睨みつけながら腕輪にはめこまれた血の色の宝石ウェリガナイザに触れ、光でも闇でもない、創始の力に呼びかける。望みもしないのに与えられ、いまだ使いこなせない力。
(こいつを、現実でないものを切り裂ける剣が欲しい!)
 魔剣ウェリガナイザはいつもルシが窮地きゅうちに陥ると現れる。それなのに、この状況でまだ危険が足りないとでもいうように何事も起こらなかった。
(どうして……)
「さがっていろ、ルシ!」
 ラヴァスの声と共に蒼白い輝きが軌跡を描く。レイプトの刃が黒い霧を裂いた。
 何の痛痒つうようも感じる風はなく、ゆらりゆらりたゆたう霧。だが、レイプトは何かに突き刺さっているかのように霧の中央に留まっている。手にした縄を通じて伝えられるラヴァスの魔力が刃を宙に浮かせ、その輝きを一層強めさせた。魔物を構成している奈落の塵の一部が浄化され、消え失せる。
「ちっ、いくら予想通りっても、こう無反応じゃがっくりくるな」
 叫ぶでなく、もがくでなく、僅かばかり体積を減らしただけで、痛手などまったく受けていないように見える魔傀にラヴァスのいらだちが募る。
 一旦刃を引き戻して印を結び、呪を唱えて風を呼んだ。八方から流れ込んだ風が黒い霧を締めつけるように渦巻く。魔物と風の渦の境界に静電気の火花が踊った。霧が圧し縮められ、闇が濃くなってゆく。
 しかし、レイプトが閃いた刹那、黒い影が薄れて消えた。
 ラヴァスの背後、手をのばせば届く場所に音もなく影が凝り固まる。
「ラヴァス、後ろっ!」
 身を捻りながら飛び退いたラヴァスと妖魔の間に剣を抜いたルシが飛び込んだ。切っ先が魔傀を突き抜け、勢い余ったルシの右手が黒い靄に呑まれる。
「うぁァ――っ!」
 奈落の冷気が腕を伝って全身を走り抜け、力の抜けた手からこぼれた剣が大地に転がった。恐怖と嫌悪が内臓を捻じあげる。
 体勢を立て直したラヴァスがルシのベルトをつかんで後ろへ引いた。
 闇から解放されたルシの手首で宝石ウェリガナイザが光を放つ――
 何もない空間から剣が現れた。衝撃にあえぐルシの手の中に。柄に血の色の宝石をきらめかせて。
「ウェリガナイザ」
 ラヴァスの唇から魔剣の名が漏れる。宝石を、腕輪を、そのあるじにしてしもべたる《ウェリアの守護者ルシ》をも指す名前が。
「来るなァ――っ!」
 じわり、と前進した闇に魔剣ウェリガナイザが斬りかかる。相変わらず手応えはなかったが刃に沿って細かな閃光が無数に弾けた。
 だが、闇はまだそこにたゆたっている。最前レイプトに浄化されたように霧の粒子の幾ばくかが消え去っただけだ。
「そんな……」
 驚愕に瞳を揺らしながら後ずさるルシ。
「ウェリガナイザでもだめだっていうのか……」
 ラヴァスの声にも苦渋の響きがあった。
 逃げ出したい!
 すぐそこに宿の扉がある。何十年も風雨に耐えてきた頑丈な建物が。あそこへ逃げ込んで厚い扉を閉ざしてしまいたい。そんな思いがルシをとらえた。目の前にいる魔傀は扉や壁などに阻まれずどこへでも行き来できるとわかっているのに。それに、あの呪文のせいで魔物は彼の元へ惹きつけられるはずだ。
 呪文――
「そうか!」
 「我が元へ来たれ」と彼は言った。だからこの妖魔は彼の傍へ寄ろうとする。低級で、生存の為に生命を吸収する事とルシに近寄ろうとする事以外考えられなくても、まだルシを主人と認識している訳だ。だったら魔傀が理解できる言葉で「去れ」と命令すれば、離れていくんじゃないか?
 そんな単純な事を思いつかなかったなんて。
 でも、だめだ。ただ追い払ったところで何の解決にもならない。魔物が存在している限り、どこかで命が失われていくだろう。そして多分、どこにいようとルシはそれを感じる。
 魔傀が現れた時、ルシは彼を求める形なき触手を感じた。それが命を貪った時、震えるような歓喜を感じた。
 創り出した者と創られたモノ。彼らはどこかで繋がっている。どこか――
「我が心の暗闇……」
 ルシの鼓動が速まる。アレに触れた時、認めるのを拒んだ、おぞましさといっしょに感じたもの、アレの名前が――行動を縛る為につけられたものではないが、その本質が――わかった。
 一度与えられた命は、なんとかして現世うつつにしがみつこうとする。言葉だけで塵に還れと命令されても、その存在を消し去ろうとはしないだろう。
 だが、消え去るのではなく、帰っていくのだとしたら? それには魔法は必要ない。ルシがそれを受け入れればいい。力を留めておく核がなくなれば、気の巡りから引き出された力は自然に還流し、塵は形を留めていられなくなるはずだ。
 心の底に押し込めていた記憶を呼び起こし、みずからの創造物に向かって闇の言葉を口にする。
「動くな! そこにとどまれ!」
 鋭く発せられた命令に、移動だけでなくゆるゆるとしたゆらめきさえ止まった。空気に溶けるようにウェリガナイザが消え去る。一歩踏み出したルシは両腕をひろげて魔傀に呼びかけた。
「おまえの中にある僕の物を返してくれ。僕の心の闇を」
「ルシ! 何をする気だ?」
 言葉のわからないラヴァスはルシが黒魔術に頼ろうとしているのではないかと不安になる。それによってルシの、素直で思いやり深くはあるが欲望も憎しみも恐怖も抱え込んだ人間らしい、そしてまだ少年の繊細な心が、黒い力の奔流に押し流されてしまうのではないかと。ルシ自身がずっとそれを恐れてきたように。
 ラヴァスに顔を振り向けたルシは大丈夫というように頷いてみせた。本当は自分のやろうとしている事に自信なんてまったくなくて、怖くて、心細くて、どうにかなってしまいそうだったけれど。
(これは僕の責任。やらなきゃいけない事なんだ。怖がっていたって、逃げていたって、腕輪ウェリガナイザがなくなったりしないように。僕が怖がってたから、あんな夢をみたんだ。見えないものを怖がっていたから)
 魔物に視線を戻して、ゆっくりと歩を進める。
「帰っておいで、僕の中に。もうおまえがいて恥ずかしいなんて思わないようにするから。おまえがいないふりなんかしないで、ちゃんと面倒をみるから。だから帰ってきて欲しい。おまえは、僕の……」
 ルシの腕が魔傀を包み込んだ。絶叫が喉を突き破る。覚悟はしていたはずなのに、それに触れた瞬間、嫌悪感が湧きあがった。

 ルシから魔物を引き離そうとしたラヴァスはあやうくそれを思いとどまった。彼の理解の及ばない魔法、あるいはそれに替わる何かが働いているのなら無闇に干渉する危険は冒せない。微妙な均衡を崩せば、とんでもない事になるかもしれなかった。ルシは自分の意志で妖魔に触れたのだから。

(違う! 僕はおまえを追い払いたいんじゃない!)
 弾かれたように離れようとした暗闇を必死に呼び戻す。どんなに疎ましくても、ソレもまた自分ルシなのだから。

 ラヴァスは魔傀の霊気がルシの中へ流れ込んでいくのを感じた。塩をかけられたナメクジのように縮んでいった妖魔が、地面にのたうつ。

 ルシのうちに帰った暗黒が、残されていた闇に呼びかける。闇の言葉が響き合う。黒い染みが拡がっていく。意志を持っていかれそうになる――

「ルシ! どうなってるんだ? おい、ルシ、しっかりしろ!」
 ラヴァスは虚ろな瞳で立ち尽くしているルシにただ声をかける事しかできない自分が歯痒かった。そうする事すらルシの邪魔になるのではないかと危惧しながら。

 ラヴァスの声が響いてくる。王国語――生まれた時からルシが親しんできた言葉――が、黒い囁きを押し返そうとする。

 ルシの身体が激しく震えだした。両腕で自分の体をかき抱き、嫌々をするように声もなく首を振り続ける。ラヴァスは心話こころ肉声こえの両方でルシの真の名を叫んだ。
「エルシアード!」
 ただのヒトの子ではなく、光と闇の血をひく王子としてつけられた名前。長い間秘められ、ルシが受け継いだ知識と魔力の封印を解く鍵として使われたその名はルシに力を与えた。現実の景色が戻ってくる。足下に妖魔の成れの果てが蠢いていた。腕輪の宝石ウェリガナイザがきらめき、再び魔剣が現れる。
「塵に還れ!」
 両手で握りしめた剣で恐怖の残滓ざんしを貫いた。
 剣の放つ強烈な光が夜の闇を駆逐する――
 核をなくし、活力を魔剣ウェリガナイザに吸い取られた塵はそれの引き出されてきた奈落へ消えていった。その直後、魔剣もまた消え失せ、ルシはへなへなとその場にへたり込む。
 乱れていた呼吸が落ち着いた後もぼんやり座り続けていると、後ろから頭を撫でられた。というより乱暴に髪をかき回された。
「ラヴァス……?」
 首を反らせて、ルシを見おろしているラヴァスと眼を合わせた。とたんにラヴァスが横を向いてしまう。でも、それで充分だった。ラヴァスがどんなに心配してくれていたか、ほっとしているか、わかったような気がする。だから問われなくても、話し出した。その視線は横手に移動したラヴァスを追うのではなく、大地に落とされたけれど。
「あれは、僕の恐怖だったんです。だからウェリガナイザでやっつけられなかったんじゃないかな? なんとなく、そんな気がする。
 ラリックの記憶に潜ってわかったんですけど、ああいった魔物を創り出す時って、普通生け贄を使うんですね。贄の恐怖とか憎悪とかいった負の感情を核にして魔を生成する。だけど夢の世界には僕しかいない。だから僕の……」
 膝に指をくいこませ、大きく息を継いだルシが次の言葉を紡ぐ前に、ラヴァスの手が差し出された。
「立てるか?」
 虚をつかれ、ただ目をしばたたいているルシにからかうような声が降ってくる。
「それとも、また寝台まで抱いていってやろうか? 初夜の花嫁みたく」
「ラヴァスっ!」
 赤くなったルシが眼前の手をパシッとはたいた。それでもラヴァスはルシを待っている。あたたかい手につかまると、心に刺さっていた氷のトゲが溶けていくような気がした――。 


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本編情報
作品名 ウェリガナイザ
作者名 祈宮風日
掲載サイト 雑談 風まかせ
注意事項 年齢制限なし /性別注意事項なし /暴力表現あり /連載中
紹介 ウェリアは混沌の海に浮かぶ一粒の輝く宝石。
反逆者と呼ばれる混沌の王子によって創られた世界で、闇の王子ジェレアクは己の復讐の為にウェリアと混沌の海の圧力との危うい均衡を崩しかねない暴挙にでた。
その頃、銀竜ヴァルガスを駆る竜騎士ラヴァスアークは三賢者から一人の少年の護衛を依頼される……
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