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祈宮風日

二面の女神


 俺にはわかっていた
 近づいてくるものが何であるのか
 俺には聞こえていた
 背後から迫り来る足音が
 この真の闇の中で

 それは
 それは 今にも俺をつかまえようとする――






 俺とした事がドジっちまったもんだ。それとも奴が狡猾こうかつ過ぎたのか。
 どっちにしろ、今の俺がとんでもない窮地きゅうちおちいっている事に変わりはない。
 ここがどこなのかは知らない。だが、頑丈そうなスチールドアがあるきりで窓ひとつないところから地下室じゃあないかと思う。
 打ち放しのコンクリート壁、コンクリートの天井と床、黄色っぽい光を投げかけている裸電球、ちっぽけな通風口。小さな木のテーブルと背もたれのついた椅子がひとつずつあるだけで殺風景このうえない。テーブルの上にはステンレスの魔法瓶と飲みかけのコーヒーが入った大きめのマグカップ。
 椅子の上には、足を組み、膝の上で手を組み合わせている男が一人。じっと俺の顔を見つめてあざけるような薄笑いを浮かべていた。
「頭ははっきりしたか?」
 男は妙にやさしげな口調でそういた。俺の意識が暗黒から浮上してもやのかかっていた視界がゆっくりと鮮明になってゆき、首を回してあたりを見回し、体の自由がきかない理由を理解した過程をじっくり観察していたらしい。
「まだ……」
 最初にでてきた声は俺のものとは思えない程しわがれていた。俺は乾いた唇をめ、唾を飲み込んで痛む喉に湿り気を与えた。
「まだ本調子とはいかないが、俺がこんな羽目に陥っちまった理由に思い当たるくらいには正気づいたよ」
「それは結構。どんな気分だ? と訊くのは愚問ぐもんかな?」
「最低だ。……そう云って欲しかったんだろ? それくらいのサービスはしてやるさ。アンタを悔しがらせる為だけに快適だとうそぶく気はない」
 実際、最低なんて生やさしい気分じゃなかった。
 素っ裸で両手を天井から吊されていれば、頭痛と吐き気を覚えていなくても世界中で俺よりみじめなやつはいないんじゃないかって気になるもんだ。
 おまけに奴を蹴ったりできないように両足首にも縄が巻かれ、股をひろげた形で両脇の壁の方へ引っ張られていた。これ以上屈辱くつじょく的で無力感を覚えさせられる格好かっこうがあったら教えて欲しいくらいだ。
「おまえはどうすれば俺が悔しがるか知っているのか? どうすれば俺が喜ぶのか……」
 奴は立ち上がって俺の腹に拳をめりこませた。苦痛が、腹だけでなく両手首と両足首にも走る。うめき声をあげ、息をあえがせた。
「わかるというのか? 俺の気持ちが!」
 続けざまに数回、拳が繰り出された。胃の中から苦くてっぱい液体がせりあがってくる。
 奴は数歩さがって俺が苦しむ様を見つめ、おもむろにマグに残っていたコーヒーを飲み干した。
「俺がおまえを憎んでいるのは知っているな?」
 答える必要のない修辞疑問文。
 そう、俺が奴に何をしたかは覚えている。奴がそれをどう思ったかという事も容易に想像がつく。そういった事を奴が知っているのもわかっていた。
 ここ数年、俺は奴の憎しみを肌で感じていた。俺に憎悪を向けている相手が奴だとわかっていた訳じゃあない。ただ、誰かが俺を殺してやりたいと思っているはずだと感じていた。
 見られている、という感覚。時折見つけた監視されていた証拠。
 俺には他人の恨みを買う覚えが山ほどあったし、すぐにもやっかいな事態がもちあがるかと神経を張りつめていたものだが……。
 何も起こらなかった。
 ただ、見られていただけだ。
 不気味だった。空恐ろしくなった。いらつき、何の策もないままに、ただ突っ走っていってその観察者をとっつかまえ、ぶっ殺したくなった。だが、そいつはそんな事をさせてくれるほど間抜けじゃなかった。
 そして多分、そのいらだちが高じて不注意になっていたんだろう。捕らえられ、数年ぶりに奴の顔を拝んで、やっと真相に気づいた。
「俺を殺す為だけにあれだけの手間をかけてきたのか? ご苦労なこった」
「殺す為だけ? とんでもない!」
 奴はさも心外だという風に首を振り、仕様しようのない奴だといった顔つきで笑ってから、鋭い目で俺をにらみつけた。
「あっさり殺しちまうようなもったいない真似をするものか!」
 低い、凄味のある声だった。数々の修羅場しゅらばをくぐり抜けてきたこの俺でさえ、思わずゾクリとしたぐらいだ。
「あの時、俺は誓った。どんな事をしてでもおまえを殺してやると。
 だが、すぐにただ殺すだけではとても俺の気持ちをしずめられないと気づいたのさ。この俺の痛み、苦しみ、心から流れ続ける血をあがなわせるにはおまえの死だけでは不足だと。
 おまえには死んだ方がマシだと思えるほどの屈辱を、絶対的な敗北を、どん底の無力感を味あわせてやらなければおさまらない。
 そしてそのすべてを俺の、この手でやらなければいけないんだと」
 奴はてのひらを上に向けた右手を突き出し、俺の眼前で握りしめた。
「その為には俺はおまえを知らなければならん。
 おまえは何を恐れ、何を憎み、何を悲しむのか?
 おまえの愛するものは? おまえの夢は? おまえの一番大切なものは何だ?
 俺はおまえを追った。見つめた。おまえの言葉、おまえを取り囲む音に聞き耳をたてた。おまえの過去を調べ、おまえの読んだ本を読み、おまえが聴いた音楽を聴き、おまえが観た映画を観た。おまえの食った物を食い、おまえが飲んだ酒を飲み、おまえの足跡を踏み、おまえの一挙手一投足に注目した。
 そして俺は理解した。おまえを!
 おまえの憎しみ、おまえの恐怖、おまえの悲嘆。おまえの愛、おまえの喜び、おまえの望み……おまえのすべてを!」
 奴の人差し指はすべてを撃ち抜く霊気を発しそうな勢いで俺の額に突きつけられた。
「そう、俺にはわかったんだ。どうすればおまえを恐怖の網の中に捕らえられるのか。どうすればおまえを絶望の淵に落とせるのか。どうすれば死が甘美な解放に思えるような苦しみをおまえに味あわせてやる事ができるのか。
 だが、俺は気づいた。わなにはまってしまった事に」
 奴は俺から視線をはずし、肩を落とした。ひとまわり小さくなってしまったようにすら見える。
「あの日からずっと、俺はおまえだけを見ていた。物陰から直に、双眼鏡で、モニターで。起きている間中、おまえの姿を見、声を聴いていた。夢にもみた。おまえの事を考えると胸が痛み、涙があふれた。
 俺はそれが憎しみのせいだと思っていた。確かにそうだった、いや、今でもそうだ。
 だが、おまえを理解する事が俺の望みのすべてになった時……それはつまり、おまえが俺のすべてになった瞬間だった。
 寝ても覚めても一人の人間の事が頭から離れない。そいつの事を思うと胸がドキドキして苦しくなる。そういう状態をなんと呼ぶか知っているか?」
 再び俺に向けられた奴の表情は苦しげにゆがんでいた。
「まったく馬鹿げた話だが、俺は恋をしてしまったんだ、おまえに!」
 奴は発作的にマグカップをつかんで力一杯壁に投げつけた。磁器の割れる乾いた音が響き、飛び散った破片のひとつが奴の頬をかすめて血をにじませる。
「だが俺の憎しみは、おまえに対する憎悪は今も激しく燃えさかっている。だから今でもおまえを殺してやりたい。俺の心を焦がし続けるこの炎を消す為に」
 何かをなぎ払うように腕を振った奴は哀しげに微笑み、それから、眩しいものを見るように眼を細めて近づいてきた。
「だがおまえを失ってしまったら、俺はまったくのからっぽになってしまう……」
 奴は両手で俺の顔を挟み、相反する感情に揺れ動く瞳で俺の眼をのぞきこんだ。まるでそこに、何かの答が書いてあるかのように。
「俺は考えた。おまえを殺す事で得られる満足と、おまえを生かしておく事で得られる喜びを。
 おまえが生きている事で感じる苦しみと、おまえを消し去ってしまう事で背負うだろうむなしさを。
 俺は引き裂かれた。まっぷたつになった」
 奴の指先は愛しそうに俺の顔をなでまわした。
「俺はおまえを愛している」
 奴の唇が俺の唇に押しつけられた。激しく、むさぼるように。
 突然、嫌悪の電撃に打たれた奴の体が飛び離れ、俺の頬に平手が飛んだ。
「俺はおまえが憎い!」
 手の甲が反対側の頬を打つ。
 口の中に血の味がひろがった。
「俺はおまえを殺したい!」
 更なる打擲ちょうちゃく
 奴の眼に水滴があふれてくる。
「俺はおまえを生かしておきたい。俺はおまえを殺したい。
 俺はおまえを見ていたい。俺はおまえを見たくない。
 おまえを見ていると胸がむかつく。おまえを見ていないと胸が苦しい……」
 あえぐように絞り出された声はあわれなほど震えていた。奴の肩は激しく上下し、自分の心臓をつかみだそうとするかのように胸をかきむしる。
「チクショウ!」
 力の抜けた膝が床に着き、両手で俺の腰にとりすがる。俺は俺の顔を見上げている奴と視線を合わせた。
 白目を血走らせた奴の視界は涙にかすんでいるはずだが、その両眼は俺を映している。二人の俺を。
 殺しても飽き足らないほど憎い男と、一瞬たりとも眼を離したくないほど愛しい男。
「俺は……俺はつかまっちまった。
 愛と憎しみというふたつの顔を持つ、残酷な激情の女神に!」
 俺はおびえた。心底怯えまくった。
 奴の狂気は本物だ。
 俺は意志の力で自分の心臓を止める事ができないのを呪った。
 俺は奴に殺される事はない。自由を得る事もない。自分が無力な木偶でくでしかない事実を噛みしめながら、愛という屈辱と、憎悪が生み出す苦痛に身をさらし、絶望という暗黒に包まれ、ただ死のみを願うようになるだろう。
 いつか、奴の狂気が完全に俺の正気を奪うまで。
 冷たい灰色の空間に奴の声がうつろに谺する。
「俺はおまえを愛している。
 俺はおまえを憎んでいる。
 俺はおまえを……」





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